2026年4月26日、母が亡くなりました。
昨年11月に癌が発覚したときには、既にステージ4。医師からは余命半年と告げられていました。
ここで書くべきか迷いましたが、自分の心の整理も含め、母とのことを書いてみようと思います。
私の母はそれはそれはパワフルで、エネルギーの塊のような人でした。娘が言うのもなんですが、とても聡明で、友達も多く、どんなドジをしても「チャーミング」の一言で許されてしまうような人でした。
元々はおしとやかな格好をしていましたが、子育てが一段落した頃からはロックに目覚め、デニムにビビッドピンクのシャツ、胸元にはスカルのブローチをしだしたりもしました。姉と私は「私たちには色々禁止していたのに、本人はすごい不良ババアになったもんだな」と影で笑ったものです。
母はフェリス女学院から早稲田大学へ進学し、広告代理店勤務を経て結婚。その後、父の仕事の関係でドイツでの生活や子育てを経験しました。そして40代を過ぎた頃だったでしょうか。ある日突然、「高校教師になる」と言い出したのです。それからすぐに教育委員会に卒業証書などを持ち込み、教員採用試験を受験。あっさり合格し、神奈川県有数の進学校で国語教師として教壇に立ちました。いや、人生ってそんな感じで変えられるものなんだ、と娘ながら驚きます。どの時代を切り取っても、母は挑戦をやめない人でした。
私自身は大学卒業後、紆余曲折を経て作曲家として活動を始めました。とはいえ最初は音楽だけでは食べていけず、アルバイトを掛け持ちしながら、安い機材でデモを作っては業界関係者に聴いてもらう日々でした。
そんな頃の忘れられない思い出があります。
初台で一人暮らしをしていた真冬のある日、部屋のエアコンが壊れてしまいました。電話で母に「寒いんだよね」と何気なく話した翌日、母は実家にあった古いヒーターを抱えて横浜からやって来たのです。私からすれば、正直、新品を買ったほうが早いのに、と思いました。
でも違ったんですよね。
母は私を温めたかったんです。今すぐに。
だから家にあるヒーターを紙袋に入れ、横浜から電車を乗り継いで持ってきてくれた。ヒーターを置き、少し話をして、母は帰っていきました。その小さな後ろ姿が遠ざかっていく光景を、私は今でもよく覚えています。
正直、母にはたくさん傷つけられもしました。激しくぶつかったこともあります。長いこと連絡を絶っていた時期もありました。それでも、私が作曲の仕事を始めてから、初めて公共の電波に自分の音楽が流れたときも、初めてCMの仕事が来たときも、初めてNHKから声がかかったときも、真っ先に連絡した相手は、いつも母でした。
母が最後の数週間を過ごしたホスピスでの夜のことです。医師からは、もう残された時間は長くないと言われていました。私は母に、感謝の気持ちを伝えました。
「お母さん、産んでくれてありがとう」
そう言うと、それまで目を閉じていた母がしっかり目を開けて私を見つめました。
「音楽を学ばせてくれてありがとう」
母は苦しい息を振り絞って「はい」と言ってくれました。
「お母さんみたいに、カッコいい生き方をするからね。カリンは大丈夫だから安心してね」
そう言うと、もう一度「はい」と答えてくれました。そして細くなった腕を伸ばし、私の顔を優しく撫でてくれました。
とても温かい、一生忘れることのない時間でした。
母が亡くなり、父も14年前に見送っているので、これで両親とも今世ではお別れです。もちろん心の中ではずっと生きています。でも、やはり死とは終わりなのだと思います。
そして親の死は、「私もいつか死ぬのだ」という当たり前の事実を、強烈な実感として教えてくれます。あれほどパワフルだった母も旅立った。命の電池はいずれ止まる。私の人生も、思ったよりずっと短いのかもしれません。
だからこそ、私は残りの人生を精一杯楽しんでみようと思います。好奇心のおもむくままに。そして最期のとき、「なかなかいい人生だったわい」と笑ってみせたいと思います。
お母さん。いまはお父さんと一緒にいるかな。
私は大丈夫。これからもちゃんと生きていくよ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
どうかあなたの人生も、たくさんの幸せに包まれますように。

