5年という月日


今日で東日本大震災から5年の月日が流れた。あれから私たちは、この国は、どう変わったのだろう。よくなったのか、わるくなったのか。

先日とあるTV番組で耳にした、福島で被災された方の言葉に、はっとした。

「5年の節目というけれど、なにが節目だと。我々からすれば、ただただ5年という月日が流れただけ。辛い気持ちが5年間続いただけ。」

お話になられた40代の男性はご家族で農業を営んでおられたが、震災で子供のように育ててきた作物が出荷できなくなり、苦しみの果てにお父上が自ら命を絶たれた。その死について国ははじめ原発との因果関係を認めなかったらしいが、後に関連性を認めたという。認めたことは何らかの前進と呼べるかもしれないが、だからといって、もうお父上は帰ってこない。

思えば私も何気なく「5年」という数字をキーワードのように使っていた。そこにはたしかに「節目」という感覚があった。でも、なにをもってして「節目」なのかを考えると思考が止まってしまう。それはそうだ。被災していない自分が「節目」を語ることなど、そもそも筋違いなのだ。

阪神淡路大震災。皆さんはこの日が何月何日だったか覚えておいでですか?正直なことを言うと、私は1月中旬あたりという認識でした。ですが、4年前の1月17日から、私は阪神淡路大震災が起きたのは1月17日だと確実に覚えました。

何故か。

それは自分の父親が4年前の1月17日に亡くなったからです。私にとって1月17日は大切な家族を想う日であり、同時に、もう会えないことを寂しく思う日なのです。いま私は1月17日になると、父だけでなく震災で亡くなられた方々を想って空を見上げます。そのときは震災で大切な方を亡くされた皆様と心をひとつにしているような気持ちになります。病気で亡くなった父を病院で見送ることができた私が、震災で大切な方を亡くされた方々と同じ立場でものを語ろうとは思いません。それでもやはり、心はひとつであると伝えたい。大切な存在を亡くすことの悲しみ、会いたいけど会えない寂しさ、ひと知れず涙を隠して踏ん張っている日常…。立場は違っても同じ人間同士、分かり合える感情はあるはずだと。私は父の死を通して、被災された方々に「寄り添う」という感覚の何たるかに、すこし気づけたように思うのです。

私が「節目」を語ることはできないけれど、「忘れない」ことを約束し、ともに生きていることを伝え続けること。被災地とは遠く離れていても自分にできることがあれば積極的にさせていただくこと。3月11日の今日、改めて心に刻もうと思います。

Karin